普通に見える「すごい人」ドラマ①元船乗り小山宏二さん

サイトを立ち上げるにあたり「最初にお話を聞こう」と決めていたのが、小山宏二(こやまこうじ)さん。今から約3年前、家族が増えて新しい家を探していたところ、2階に家主が住む一戸建て物件を見つけました。上に住んでいるのが、家主である宏二さんと奥様です。

運命の出会いってあるんですね。今では僕たち家族と宏二さんご夫婦と、家族ぐるみでおつき合いをさせてもらっていて、「こんな夫婦になれたらいいな」と憧れています。日常的に顔を合わせていますが、意外と知らない宏二さんの素顔に迫ります。

聞き手/木村悦子(フリーライター・編集者)



どんな人にもドラマがある。語られ尽くした有名人ではなく、普通に見える市井の人こそやっぱりすごい! 飾りのない等身大の言葉で語ってもらいました。

東京商船大学卒業後船乗りに

小山宏二さんは、東京商船大学卒業後、海運業界一筋。いわゆる船乗りだった。

東京商船大学の起源は、1875(明治8)年創設の三菱商船学校にさかのぼり、多くの船乗りを輩出するほか、海に関連する科学・工学教育や研究でも知られる。今は東京水産大学と統合し、東京海洋大学と改称している。東京海洋大学・越中島キャンパスには、現存する日本最古の大型の洋式船である明治丸があり、内部が一般公開されている。

小山宏二さんたちが実習で乗船した日本丸

「私が学生だったころは、改修する予算がなくて明治丸はボロボロでした。海にただ浮かんでいただけで、どんどん腐ってきたので、埋めちゃってたぐらい。ただ、就職に関しては、仲間とよく話すんですけども、一番恵まれていた時代じゃないかなと思うんです」と、当時を振り返る。

見事、大手船会社に就職し、世界を股にかけて活躍。奇しくも、宏二さんは、江戸屈指の水運都市・深川(東京都江東区西部。旧深川区)で生まれ。深川は、各地から運ばれる材木を集めて製材し、江戸市中などへ輸送する「木場(きば)」があった土地で、輸送のため水路が広がった。

「木場の材木問屋はお金持ちで、長者番付に何十年も日本一だった人もいたほど」と宏二さん。

生まれは深川で、一生船乗りなんて、船や水辺に縁があるのですね! と言うと、「結果としてそうなっちゃっただけよ」と、そっけない。

区のボランティアとして英語講師も

会社を退職後、仲間や先輩とちょっと特殊な船だけを扱う会社を設立。今は引退し、学芸大学駅で悠々自適の日々だ。「もうだいぶ、忘れちゃったけど」と謙遜するが英語はペラペラ。目黒区のボランティアとして英語を教えていたほどだ。

「コロナ禍のため、英語レッスンもリモートになっちゃって、今は休んでいます。もともとは1対1で対面し、さまざまな参考資料を見せながら教えることもできるんですが、リモートではおもしろくないんですよね」。

スマホもすっかり使いこなしている。「パソコンは早くから使ってきましたが、スマホは『もう近いうちにガラケーはなくなる』って聞いて使い始めたばかりですが」と言うが、LINEアプリも使いこなし、日常のコミュニケーションツールの一つとなっている。

スマホのアルバムの中では、ポメラニアンの写真がひと際目を引く。昔飼っていた愛犬で、14歳ぐらいで亡くなったという。

「老衰とはいえ、最後は辛かったですね。やっぱり内臓……おそらく腎臓の病気だったようです」。

ただ、宏ニさん本人はというと、元気そのもので、肌艶もいい。お母様は101歳まで生きたというし、遺伝的に健康体なのだろう。

「ただね、去年の10月に、白内障で人生初めての入院をしたんです。術後の経過は良好で日帰りできるところ、『泊まりますか?』と言われてね。考えてみたら、入院って1回もしたことないので『じゃあ、冥土の土産に泊まります」って。

優雅?質素?船乗り生活の現実

タバコは吸わないが、仕事の付き合いでお酒、ときには葉巻を嗜むこともある。

「葉巻好きの後輩に誘われて、東京の日本橋にあるホテルのシガーバーに行ったんです。キューバ産の一番上等なもの。銀の盆に乗せて持ってくるわけよ。みんな吸うから吸ってみると、気持ち悪くなっちゃった。1本で3000円ぐらいだから、ちょっと奮発したね」。

そんなエピソードからわかるように、浮かれた感じは皆無。ただ、船乗りらしく、話せばさまざまな外国の名前が出てくる。ちなみに、船会社の仕事内容は主に2つ。船を所有し荷物を自分で運ぶか、荷物を持っているところに船を出して運んであげて運賃を得るかである。

「葉巻は、ベネズエラ北西岸沖にあるオランダ領のキュラソー島ではじめて吸ったね。大航海時代、オランダやスペイン、ポルトガルなどが、南米やアジアに進出して植民地化してたの。オランダはインドネシアを統治するほか、キュラソー島に、イギリスとロイヤル・ダッチ・シェル社という石油会社を設立。自分は仲間と会社を作り、31、32歳ぐらいからキュラソー島に行ったかな。毎年1回船を造船所で修理しなきゃいけなくて、日本なら造船所は腐るほどあるけど、現地にはない。かといって、日本まで船を持って来れないので、オランダの会社と一緒に造船所を造ったの。そんなわけで、仕事で1年に2回ぐらいキュラソー島に行くようになったけど、仕事が終わればすることがない。海岸で寝転がったり、誘われればカジノやゴルフ、葉巻を嗜むぐらいだったね」。

キュラソーには飛行機が飛んでおらず、キュラソーのことを語れる日本人は宏二さんぐらいかもしれない。さすが、船乗り。

宏ニさんの人生はほぼ海の上。今まで行った中で最高の国はどちら?

「地中海に浮かぶマルタ島ですね。食べ物もいいし、人もいいし。十字軍の要塞になった歴史もあり、城壁に囲まれた古都です。住むかっていうとちょっと違いますが、観光で行くには最高です。以前にお世話になった人、まあ、友だちといってもいいかな、現地の人たちがそうやって『来い来い、来い来い』って言うもんだから、仕事を引退する前、妻を連れて行ったこともあります。僕としては、行ってもなんにもないよって思ったんですが、妻が『じゃあ行く』って言うからね。世界中、いろんなところに行きましたけど、やっぱりそうね、一番仲良くなった人がいる国の1つかもしれないね」。

世界を転々としたのち、学芸大学駅へ

引退後、東急電鉄東横線・学芸大学駅に居を構える。学生やファミリー、シニアとさまざまな世代が暮らし、駅周辺の商店街には活気があり、めぐろパーシモンホールのような立派な公共施設もある。バス、電車の便だって良好だ。

誠実で優しい性格、何一つ不自由のない生活。モテモテ人生かと思えば、あれ……全然浮いた話が出てこない。

「仕事で海外を転々とするのでね。大きな仕事になると、1カ月留守にすることもあるし、アメリカに1カ月半ほど滞在したこともあります。そうなるとなかなかね、連絡も取れないしね。当時はまだ携帯もないし」。

それは、遠距離恋愛で苦労した話? かと思えば、「そういうのはないですね」と笑う。

そう、文字通りの、仕事ひと筋だったのだ。ところが、ある日、新橋の烏森神社そばの飲み屋にて、運命の出会いが訪れる。宏ニさん40歳、お相手●歳。

「烏森神社境内に、見過ごしそうな細い道があって、その先の路地に飲み屋街があるんです。一流企業のビジネスパーソンに混じって、我々船屋のいろんな連中とよく行った。僕は出張続きだから、出張帰りに羽田に帰ったらその足でまっすぐ新橋。そこで一時、会社員だったけど料理が好きで、アルバイトをしていた女性がいたんです。僕も1人、相手も1人で飲みに来たタイミングで……」。

恋に落ちたっていうわけですね。その後、2人は結婚し仲良く暮らしています。最後にとびきりロマンチックなお話をありがとうございました!